「M-1グランプリ2021」で優勝し、大ブレイク中のお笑い芸人「錦鯉」。
2022年7月19日からは、朝の情報番組ZIPで2人の半生を描いたドラマ、「泳げ!ニシキゴイ」も放送されます。
2人はブレイク当時の年齢が長谷川雅紀さん49歳、渡辺隆さん42歳と、かなり遅咲きなことでも有名ですよね。
お笑いで成功するまでに一体どんな人生を歩んできたのでしょうか?
この記事では錦鯉の向かって左側、スキンヘッドの長谷川雅紀さんについて生い立ちをまとめました。
錦鯉・長谷川雅紀の生い立ちとは?
北海道札幌市生まれの長谷川雅紀さん。
実家の家族構成は両親と2つ年上の姉・2つ年下の弟、そして長谷川さんの5人家族になります。
本人曰く「くすぶり続けた人生」とのことですが、ネットの情報を見る限りは、生い立ちや家庭環境は特別壮絶という感じもしない気がしました。
以下に生い立ちをまとめてみます。
裕福だった幼少期、しかし一転・・・
父親が札幌市中央区の二条市場で鮮魚類の珍味店を経営していたという長谷川雅紀さん。
幼少期は、小学1年生頃までは裕福だったと言います。
2つ年上のお姉さんは、日本舞踊やお茶、エレクトーンなど習い事をたくさんしていたようです。
しかし、1979年に父親の珍味店は閉めることになります。
長谷川さん曰く、「父は事業に手を出して騙され、店を取られちゃった」とのことです。
その後は札幌市白石区のアパートへ引っ越し、祖父も加えた6人でボロボロのアパートに住むことに。
- 風呂無し
- トイレは共同、汲み取り式
という引っ越し先のアパート。
お姉さんはそのアパートのトイレが本当に怖くて、長谷川雅紀さんや弟などもよくトイレに付き添わせていたそうですよ。
汲み取り式・・・いゆわるボットン便所は確かにちょっと怖いですもんね!
いたって普通な学生時代
小学校~高校時代はいたって普通の男の子だったようです。
兄弟喧嘩はしてたようですが、弟からはずっと「まっち」とあだ名で呼ばれていたといい、家族仲も普通に良かったようですね。
長谷川雅紀さんのnoteには、こういったたわいもないエピソードが綴られていましたよ。
- 母+姉弟とお祭りへ行った
- チョロQで遊んだ
- 小5の時ミステリー列車でひとり旅した
- 小6の時近所のゲームセンターへ毎日通った
- 中2で猫を飼ったら猫アレルギーで喘息になり入院した
クラブ活動は小学校ではビデオクラブ、中学校では陸上部、高校ではバドミントン部だったそうです。
この頃は斉藤由貴さんが好きで、ファンクラブにも入っていたといいます。
音楽番組「ザ・ベストテン」の生中継で斉藤由貴さんが札幌へ来た時は、会場のホテルの中庭で声援を送りながら斉藤さんの生ライブを見れたそう。
「生涯の思い出」というほど長谷川さんの心に残っているようですよ!
高校生の時、両親が離婚
長谷川雅紀さんのご両親は、長谷川さんが高校生の時に離婚します。
母親は2022年現在は札幌市内で居酒屋 「簑屋(ミノヤ)」を経営されていますが、離婚当時はパートで家族を支えていたようですね。
父親とは両親の離婚後、音信不通だったようですが、2017年頃から連絡を取るようになったとのこと。
しかし、2020年のM-1予選中に父親は亡くなってしまいます。
デザイン専門学校へ進学するも中退
北海道北広島西高校を卒業した長谷川さんは、北海道造形デザイン専門学校に進学します。
デザインの道へ進んだ理由は、
- 就職はしたくないけど大学へ入れる頭は無い
- (高校の)クラスの友達が行くデザイン専門学校なら僕でも行ける
と思ったからだそうです。
しかし学校が合わなかったのか、デザイン専門学校は半年ほどで中退してしまいます。
ホスト時代、源氏名「マツモトキヨシ」
専門学校を中退した長谷川さんには、ホストとして働いていた時代もあります。
当時の源氏名は「マツモトキヨシ」でしたが、名刺を配るたびにスベりまくったそう。
座ってお酒を飲みながら女の子としゃべってお金がもらえる楽な仕事、というホストへの考えも浅はかだったようで、
「僕、女の子とおつきあいしたこともなかったし、全然女の子としゃべれなくて。社会も知らなかった」
出典:スポニチ
とまったく上手くいかなかったことを語っています。
劇団員を経てお笑いに出会う
長谷川雅紀さんはカプセルホテルで働いてた時期もありました。
その時の同僚が劇団員だったことから、長谷川さんも「劇団しゃどうず」に入団。
そこで、
- お芝居をしている上で、笑わせるシーンが面白いと思ったこと
- 海砂利水魚(現・くりぃむしちゅー)などのコントに衝撃を受けたこと
- 1994年に札幌吉本ができたこと
をきっかけに、23歳で芸人に転身します。
錦鯉・長谷川雅紀の芸人経歴
ここからは長谷川雅紀さんが芸人としてブレイクするまでの経歴について見て行きます!
1994年に23歳で芸人に転身した長谷川雅紀さんは、高校時代からの友人・久保田昌樹さんと「まさまさきのり」を結成。
途中一度の解散を挟んで、1994年~2011年まで活動します。
- 1994年~2000年まで活動し一度解散
- 2003年に再結成し2011年8月に再度解散
その後、ピン芸人「のりのりまさのり」として活動した後、2012年4月1日に現在の相方である渡辺隆さんと「錦鯉」を結成。
売れない期間も長かったですが、2020年のM-1グランプリ決勝で4位をとってからテレビ出演が急増。
2021年12月19日、M-1グランプリでついに優勝を果たしました!
下積み時代の貧乏エピソード
芸人としてブレイクする前は、牛丼屋の松屋でシフトリーダーをしており、週5日の深夜勤務を10年ぐらい続けていたといいます。
そんな長谷川さんの貧乏エピソードいくつかご紹介します。
- 築60年のアパートで生活(ご馳走のからあげ弁当を落とすとネズミに盗られる)
- 100均の8枚切り食パンにマヨネーズを塗ったもので腹を満たす生活が20年継続
- 部屋の電気が止められ信号機の明かりでひげを剃る
- カップ焼きそばの湯切り口をシャワー代わりに頭を洗う
- 所持金(全財産)が90円しかなく、後輩に無理を言って300円借りた
借金は母・幸子さんからもしていたようですが、せっかくもらった仕送りをパチンコにつぎ込んでいたなんてエピソードも!
50歳目前でブレイクし、現在はそれなりな生活を送れているのでしょう。
お母さんもきっとほっとしているでしょうね!
売れないのに芸人をやめなかった理由
49歳でやっとブレイクした長谷川雅紀さん。
正直、よくその年まで続けたなと思う人も多いですよね。
20年以上売れなかったのに、それでも芸人をやめなかった理由は「辞めるきっかけを逃した」からでした。
笑いが好きだから売れなくてもやりたいとか、俺たちは面白いからいつか花咲くから続けよう…、というよりは辞めるきっかけを逃した。
出典:日刊スポーツ
てっきり芸人に対する強い思いがあるのかなと思いましたが、ずるずる続けてしまったようですね。
苦労はたくさんしてきたようですが、結果として芸人として食ってくことができるようになりめでたし!ですね。
まとめ
錦鯉・長谷川雅紀さんの生い立ちや家庭環境、芸人としてブレイクするまでについてまとめました。
長谷川家は多少貧乏な時期もあったようですが、特別壮絶な幼少期を過ごしたという感じでもなく、仲の良い家庭で育った普通の子という印象を受けました。
芸人になってから20年以上売れず苦しい時期を過ごしましたが、遅咲きながらもブレイクすることができて良かったですね!
錦鯉の生い立ちから大ブレイクまでは、新潮社の「くすぶり中年の逆襲」でもより詳しくまとめられています。
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気になる方は是非チェックしてみてくださいね!