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久保田早紀「異邦人」と共に41年の今は?音楽活動はしている?

 

名曲ベスト100というと、必ずといっていいほど、あがってくる、久保田早紀の「異邦人」

久保田早紀さんて、今はどうしているのでしょうか。

久保田早紀さんの経歴とともに、異邦人大ヒットから38年の今はなにをして、まだ音楽活動しているのか、調べてみました。

まずは現在の久保田早紀さんをご紹介したいと思います。

 

 

では、引退までの生い立ちをたどっていきましょう。

久保田早紀のプロフィール

久保田早紀さんのプロフィールです。

  • 名前 久保田早紀
  • 本名 久保田小百合
  • 現在の名前 久米小百合
  • 生年月日 1958年5月11日 現64歳
  • 出身地 東京都北多摩(現在の国立市)
  • 中学:八王子市立第4中学校
  • 高校:共立女子第二高等学校
  • 大学:共立女子短期大学文科国語

久保田早紀として活動していたのは1979年から1984年までです。

では、現在、どうなっているのか。音楽はやっているのでしょうか・・。

 

久保田早紀(久米小百合)の今、音楽してる?

久保田早紀さんは、芸能界を引退してからずっと「音楽宣教師」として活動してます。

つまり、別の形で音楽活動をしているってことですね。

音楽宣教師としての活動の数々・・

  • 三鷹のバプテスト教会が拠点。お声がかかればあちらこちら出張・
  • チャリティーコンサート
  • 講演会・交流会
  • 朗読会
  • オリーブオイルジュニアソムリエの資格を生かしてオリーブオイル講座を開く
  • 「東北応援団 LOVE EAST」を立ち上げ東北支援の活動をしている

今久保田早紀さんは、「喜んで・祈って・感謝する」を胸に身体が動く限り続けたいとおもっているそうです。

また、2020年に36年ぶりに「久保田早紀」としてコンサートを企画します。新型コロナの影響で2021年8月に延期になってしまいましたが、無事コンサートできたようでこれもまたよかったです。

体力はまだまだあるし、ファンも居続けているということですね。

素敵な活動ですね。自分の身体を使って周りを幸せにするのは、芸能界に居た頃もそうだったし、それがあったからこそ、いまの仕事に巡り合うことができたのだと思います。

では、生まれてから今までの経歴をたどっていきましょう。

久保田早紀の生い立ち

まずは幼少期から

幼少期~

1958年、現在の国立市で生まれました。

母親の意向で、4歳からクラシックピアノを習い始めます。

久保田早紀が5歳の時に未熟児で生まれて亡くなった弟がいました。

お母さんは娘が生まれたらピアノ・息子が生まれたらバイオリンと決めていたそうです。

祖母は三味線と日本舞踊が趣味だったので、俗にいう「6歳6月6日」から日舞のお稽古も始めました。これは本当は嫌だったそうです。小学校まで日舞は続けたので、所作が少しわかり歌舞伎を観るときに役立つそうです。

本人はクラシックより、フォークソングや歌謡曲。流行ったビートルズなどが好きで演奏し、中学になるとレッスンを辞めてしまいます。

久保田早紀の中学~

中学に入って、八王子市に引っ越しをします。

当時流行っていた「ガロ」のコピーバンドを始めた同級生に、キーボード担当として誘われ、文化祭で演奏を披露していました。

ピアノのレッスンは辞めていましたが、ピアノは好きで小学校の時のように歌謡曲などを弾き、その当時デビューしていた松任谷由実や矢野顕子に憧れて、自作の曲を書き留めていました。

作曲するようになる・・て凄いですね。音楽本当に好きだったんですね。音楽が常に身近にある生活ですね。

お父さんの影響

久保田早紀さんのお父さんは海外へ出張に行く仕事をしていました。当時イランに赴任していた父が現地の人気の女性アーティストのカセットテープをよく購入してきてくれていた、中東独特の音楽を聴いていたことが、久保田早紀の異国情緒あふれる音楽性を養うことにつながったと思われます。

高校時代~

共立女子第二高等学校に入学。その後共立女子短期大学に入学。短期大学在学中に「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募します。

応募の条件でCBSソニーに自分の歌を録音しておくり、一次は合格。

元々「ミス・セブンティーンコンテスト」とうたっているのに、アイドル対象のオーディションとわかっていなかった。

なので二次の水着の審査は固辞。六本木のCBSソニースタジオで引き語りを披露。その時、「デビューの約束は出来ないけれど、4年生に行ったと思って、一緒に曲造りをしませんか」と声をかけたのがディレクターの金子文枝さんでした。

金子の指導のもと、デビューを目指して、短大とCBSソニーに通っていました。

その道中に曲を考えるようになり、「異邦人」も八王子付近や国立付近で作ったというエピソードが残っています。

デビュー~

1979年に卒業。その年三洋電機がタイアップについてデビューを果たします。

三洋電機がタイアップなんて会社の期待が大きい証拠ですね。

デビュー曲の候補には「白い朝」「夢飛行」「25時」の3曲があがった。

この「白い朝」にMV映像がアフガニスタンで撮影されたことや。当時ジュディーオングのお蔭で流行していたエーゲ海や地中海などの異国情緒が意識された結果、「白い朝」にかなり大胆なアレンジが施されました。

曲がどんどん変わっていくことに本人はどう思っていたのでしょうか。作曲をよくやっていた本人は楽しんでやっていたのでしょうか。

インタビューで「自分の曲がプロのアレンジで「異邦人」というエキゾチックな中東風の曲に生まれ変わったんです。プロの仕事というのはこういうのもなんだ!と本当にびっくりした」と話されています。

とても楽しかったようです。

「久保田早紀」として歌手デビューしてからは、テレビカメラの前で歌ったりしゃべるのは苦手でした。

スタジオワークはとても楽しく作曲や編曲だけの仕事をしたいのに・・とジレンマを感じていたようです。

私達はそんなことはつゆ知らず、騒いでいましたねぇ・・。

その時に、昔教会で歌ったり聖書の話を聞く日曜学校のことを思い出しました。そのため、教会にいってみることにしたのでした。

教会にいって自分のルーツはこの教会だとはっきりわかったため、その後1年半してプロテスタントの洗礼を受けることになります。

クリスチャンになったことがその後の人生を大きく変えてくのでした。

デビューしてから、その美貌も併せてじわじわとブレイクしていきます。

1979年10月にデビューして12月には1位になり、そのご3週間連続しました。12月に初のアルバムを出す。

1980年に2つのアルバムをだし、1981年の「オレンジ・エアメール・スペシャル」は「キリンオレンジ」のCMにも起用されます。

その後も活動を続けていたが「異邦人の久保田早紀」のイメージはぬぐえず、活動は徐々に下降線になります。

本人は「久保田早紀としては十分に活動した」との思いもあって、音楽家の久米大作との結婚をきっかけに、芸能界を引退します。

これはSONY MUSICが出している1984・11・26東京。九段会館での模様です。

引退後~

26歳で引退後、クリスチャンの「教会音楽家」(ミュージック・ミッショナリー)として、本名の久米小百合で音楽活動を行うようになります。

◆2007年から2010年まで日本聖書協会の親善大使を務める。

◆2008年・2009年に教会のカタログに写真が掲載される。

デビュー曲の「異邦人」はたびたびCMソングに起用。2003年には三洋電機のCMに再起用されています。数多くのミュージシャンにもカバーされるなど。今でも「名曲100選」には必ず入ります。

2007年パワー・フォー・リビングのCMに出演しています。

2007年から2010年まで日本聖書協会の親善大使を務めました。

2013年8月31日、NHKBSプレミアムで「うたものがたり」が放送。ヒット曲の裏側を検証する番組で「異邦人」が取り上げられました。

時折、テレビやラジオでゲスト出演しているようですね。

では、まとめにはいっていきます。

 

久保田早紀「異邦人」と共に41年の今は?音楽活動はしている?まとめ

「異邦人」の久保田早紀さん、デビューから考えると実に41年!

小さい頃から作曲をし、音楽を楽しみ「異邦人」を発表。

引退後は久米小百合として音楽宣教師(教会音楽家・音楽伝道師)として各地のキリスト教会などで教会音楽とアートを融合させたコンサート・講演会・交流会を行っています。

これからも、お元気で活動していって皆さんに幸せを届けて欲しいと思います。