長崎・端島(軍艦島)は、かつて日本でも指折りの過密都市でした。面積はわずか0.063平方キロメートル(約6.3ヘクタール)に過ぎないにもかかわらず、炭鉱全盛期の1959年には島民数が5,000人を超えたことで人口密度は驚異的なレベルに達しました。東京23区の数倍を超える密集度を誇った軍艦島の数値や、そうした暮らしを支えた背景について、最新情報とともに詳しく解説します。
目次
軍艦島の最盛期における人口密度
軍艦島は海底炭鉱で栄えた鉱山島として発展し、1974年の閉山まで人口が増加しました。最も人口が多かったのは1959年で、このとき島内には5259人が居住していました。面積0.063平方kmという極小の島に5000人を超える人々が暮らした結果、人口密度は約83,500人/km²(1平方キロメートルあたり)と計算され、当時の記録としては世界屈指の数値となりました。
この人口密度は、当時の東京23区の約9倍に相当する過密さです。事実、2014年には英紙ガーディアンが軍艦島を「世界十大ゴーストタウン」のひとつに挙げ、1959年の軍艦島が「1平方キロメートルあたり83,600人」という過去最高密度を記録したと報じられました(※正確には島の約8割にあたる居住可能域に限る数値)。152017年の調査でもこの記録は破られておらず、軍艦島の最盛期の人口密度は今なお桁外れの高さです。
最盛期の人口と算出された人口密度
1959年の兵庫炭鉱(軍艦島を経営した三菱社)による統計によれば、当時の居住人口は5259人でした。島の面積0.063平方kmに対してこれだけの人がいたため、単純計算では1平方キロメートルあたり約83,500人という数字になります。これは一般的な都市部の数十倍に相当し、他に類を見ない密集度でした。なお、計算上の人口密度83,500人/km²は学術的にも引用されることが多く、軍艦島を語る上で象徴的な数値です。
85,000人を超えるこの数値は、現代の都市部と比べると異次元です。例えば東京23区の平均人口密度が1万~1万5千人程度であるのに対し、軍艦島は当時その約5~8倍の過密さでした。過去の記録によれば、1960年頃の東京23区密度と比べても9倍以上であり、密集度では間違いなく当時の日本一でした。
居住面積に基づく実質的な人口密度
軍艦島の島内面積のうち、炭鉱施設やプラントなど産業用地が占める割合は約4割に達していました。これらは居住には使われておらず、実際に人が住んだ区域は島の約6割程度に過ぎません。換言すれば、居住可能な区域に限定して人口密度を計算するとさらに高い値になるわけです。
計算例をあげると、島の総人口5259人の約2/3に相当する3500人余りが居住用地に集中していたとすると、その区域面積で密度を換算すると約14万人/km²に迫る勢いになります。実際には港湾や空き地も含めると居住スペースはやや広くなりますが、それでも14万人を超える密集状態は驚異的です。このように、島の一部に住人がぎっしり密集していたため、軍艦島は「実質的な人口密度」で見ても世界的に稀な高さを誇っていました。
人口増加を支えた炭鉱開発の背景
軍艦島の人口が急増したのは、炭鉱事業の隆盛に伴うものです。もともと島民数は三菱炭鉱の開発当初から増えていましたが、特に第二次世界大戦後の昭和20~30年代にかけて石炭需要が劇的に高まりました。日本の敗戦から復興期にかけて炭鉱は戦略的産業となり、全国から炭鉱労働者やその家族が移り住みました。
端島では当初は海岸近くを埋め立てて操業開始しましたが、埋立て面積の拡大や摩耗坑道の尽きた際の坑道掘削などが進むと、島内にどんどん労働者向け住宅が建てられていきました。1930年代には鉄筋コンクリートの多層住宅が次々と完成し、島外の労働者誘致が本格化します。とくに1950年代後半には全国的な石炭不足も相まって、軍艦島にも炭鉱夫とその家族が殺到しました。
炭鉱事業の発展と人口増加
三菱系の鉱山開発により端島では海底炭鉱の生産量が急増しました。とくに高度経済成長期に入ると石炭の需要が一気に拡大し、島内では生産拡大のため坑道の掘り下げや機械化が進みます。この過程で新しい住居も次々と建設され、人員を収容できる環境が整いました。こうして、炭鉱の生産能力が上がるほどに必要な労働者も増え、人口増加が加速します。
また、当時の社会背景として大都市から地方中小へ労働力が移動しやすい仕組みは十分ではありませんでした。そのため各地でぬきんでた産炭地の軍艦島には家族を伴うケースも多く、島内で安全な住まいを提供すれば家族ごと居住する人が増えたといわれます。結果的に、1世帯あたりの人数が増える形で、島全体の人口が押し上げられたのです。
戦時中・戦後の人口動向
第二次世界大戦中は労働力不足を補うため、朝鮮半島や中国からの労働者も動員され、島の人口はさらに膨張しました。敗戦後は戦時中の混乱が一段落し、復員兵や炭鉱夫の帰還、さらには新規採用者の入島も進みました。1950年代後半から1960年代初頭にかけては日本全体で製造業が急成長した時期と重なるため、軍艦島の炭鉱も一段と稼働が活発化。こうして1959年に人口ピークを迎えるまで増加傾向が続きました。
軍艦島では1950年代半ばには世帯数も急増します。当時の記録によると最盛期の世帯数は約800世帯で、一世帯あたり平均6.6人という非常に大家族型の構成でした。一方で戦後直後の1940年代後半には世帯数は1600世帯程度で人口は4500人前後、1世帯あたり2.8人程度でした。つまり炭鉱事業のピークに合わせて世帯数が減る一方で一世帯あたりの人数が増加したため、結果的に一時期ほど多くない世帯により多くの人が生活し、人口過密がさらに進む構造となっていたのです。
ベビーブームと世帯構造
軍艦島では全国的なベビーブーム(1947~1949年頃)とはずれたタイミングで若年層が増えました。全体の出生数増加は限定的だったものの、農村部などで生まれ育った若者が炭鉱労働を求めて集まり、島内の若年層人口が相対的に多い傾向がありました。これらの若夫婦が子どもをもうけたことで、1950年代末には子どもの割合も高まります。そのため一世帯あたりの人数が増え、結果として人口密度をより押し上げる一因となりました。
他の都市との人口密度比較
軍艦島の人口密度の異常事態ぶりを実感するには、他の都市との比較が参考になります。以下は軍艦島の最盛期(1959年頃)と他地域の代表的な人口密度をまとめた表です。
| 都市・地域 | 面積 (人口密度計算基準) |
人口(当時) | 人口密度 |
|---|---|---|---|
| 軍艦島(最盛期) | 0.063 km² (全島) |
約5,259人 | 約83,500人/km² |
| 東京23区(2024年) | 約621 km² (23区全体) |
約960万人 | 約15,500人/km² |
| マカオ半島(2020年) | 約32.9 km² | 約621,400人 | 約60,000人/km² |
| マレ(モルディブ首都、2021年) | 約9.27 km² | 約202,400人 | 約21,800人/km² |
| ムンバイ(2021年) | 約603 km² | 約1,300万人 | 約21,500人/km² |
表に示したように、マカオ半島部で約6万人/km²、モルディブ・マレで約2万2千人/km²、ムンバイで約2万1千人/km²と、現代の高密度都市も2万~6万人/km²程度です。これらと比べても、軍艦島の約8万3千人/km²という値は突出しています。事実上、軍艦島は当時の世界的ランキングで群を抜いており、単一居住地としてはおそらく「歴史上最も人口密集度が高かった都市」だといえます。
なお、前述のように軍艦島では居住区以外の工業用地も多く、その部分を除くと実質的な密度はさらに高い値になります。居住エリアに限定した人口密度は14万人に達するとも推定され、どの都市にも例を見ない極限の過密環境だったことが分かります。
最盛期の生活と住居環境
軍艦島に住んでいた当時の人々は、非常に過密な環境で生活していました。島では日本初の鉄筋コンクリート高層アパートが1916年に建設され、その後も次々と多層住宅が建てられました。最盛期には当時としては珍しい共同住宅やインフラが整備され、居住環境としてはずいぶんと前衛的なものでした。
しかし、過密状態ゆえに生活空間は極めて制限されていました。各住居は日本の平均的な市街地に比べて非常に狭く、また建物と建物の間隔もほとんどありませんでした。複数階のアパートには数世帯がひしめき合い、階段や廊下には同時に多くの人が行き交うため、活気ある一方で混雑も激しかったと伝えられています。
初の鉄筋コンクリート住宅と建築
1916年に建設された「30号棟」は日本初の鉄筋コンクリート造共同住宅として知られ、現在も遺構が残っています。これは地震・火災対策のために当時としては画期的な建築技術でした。その後も多くの高層アパートが増築され、最盛期には15棟以上が並ぶほどの住宅密集地帯となりました。各棟には台所・居間・寝室に加え、ベランダや共有の水道設備が備えられ、狭いながらも当時の炭鉱従業員には画期的な住宅でした。
公共施設や娯楽の充実
過密都市であるにもかかわらず、軍艦島には学校や病院、映画館などの主要施設も整備されていました。これらの施設は島民の生活を支えるために造られ、島内にいながら都市的な暮らしが可能でした。主な施設には以下のようなものがありました:
- 小学校・中学校:子どもたちの教育施設
- 病院:炭鉱労働者や家族のための医療施設
- 食堂・売店:島内飲食店や商店街
- 映画館:娯楽施設として人気
- 温水プールや公園:レクリエーション施設
- 集会所・神社:社交や宗教活動の場
これらの充実ぶりは、完全な孤島にもかかわらず快適さを追求していた産業都市ならではの特徴と言えます。ただし、あくまで極狭の島内で運営されたため、混雑や需要超過は常態化しており、住民は常に行列や譲り合いの生活でもありました。
密集した日常生活
住民たちは狭い通路や階段で行き交い、毎日の買い物や通学も混雑の中で行われていました。配送や水道は島外から供給され、物資は定期便で運ばれますが、人口の多さゆえに常に船が貨物を満載して来島していました。家族全員が狭い空間で生活していたため、プライベートはほとんどなく、寝具や日用品は共有スペースで保管することも珍しくなかったそうです。
また、夏季には非常に蒸し暑く、冬季には北風が吹き付けるため、換気確保と保温も課題でした。それでも島民たちは互いに助け合いながら暮らし、島内では「一つの社会」と言えるほど強いコミュニティが形成されていたと伝えられています。
閉山後の軍艦島と現在
1974年に三菱炭鉱の閉山が決定されると、それまで栄えていた軍艦島は突然人口ゼロとなりました。閉山宣言と同時に島民は島外へ転出し、以後は無人島となります。安全確保のため上陸禁止措置が取られましたが、2015年に上陸観光が解禁されるまで約35年間、軍艦島は「ゴーストタウン」の状態が続きました。
近年では文化財としての価値が見直され、2015年には明治期の産業化遺産の一部として世界文化遺産に登録されました。現在では保存修復や見学歩道の整備が進み、観光ツアーで上陸できるようになっています。ただし耐震性の問題から一部建物への立ち入りは制限されており、廃墟の観光地として安全確保が徹底されています。
1974年閉山後の無人島化
閉山直後には急いで島内の機材撤去や片付けが行われましたが、居住棟はほとんど解体されず、そのまま放置状態になりました。以後は自然風化が進み、数十年で建物の崩落も目立つようになります。1980年代には「軍艦島禁止令」が国から発令され、上陸は厳しく制限されました。これにより、軍艦島は文字通り「歴史の止まった島」となり、メディアや作家からは世界的に有名な廃墟として取り上げられるようになりました。
世界遺産登録と観光現状
2015年7月には「明治日本の産業革命遺産・製鉄・造船・石炭産業」の一部として世界文化遺産に正式登録されました。これを機に保存活動が強化され、現在では観光客向けに上陸ツアーが行われています。上陸可能なのは整備された通路沿いのみで、島内の限られた区域を専門ガイド付きで見学できます。軍艦島デジタルミュージアムや博物館も長崎市内に設立され、研究成果や当時の写真・資料を展示。現地の廃墟からも発掘調査が行われ、過去の生活についての解明が進んでいます。
現代では軍艦島を訪れた人々は当時の人口密度のすさまじさを目の当たりにします。狭い通路に対し両側に並ぶ廃屋や、狭い階段などを見て「この中で5000人がどう暮らしていたのか」と驚く声も多く、軍艦島の歴史と生活環境は今もなお国内外で大きな関心を集めています。
まとめ
軍艦島の最盛期(1959年頃)には、わずか0.063平方kmの島に5259人が暮らし、人口密度は約83,500人/km²に達しました。この数値は当時の東京23区の約9倍で、世界的に見てもまれな高さです。炭鉱産業の発展に伴う急速な人口流入と、島の拡張を限界まで進めた結果、居住区域では実質的に約14万人/km²もの過密状態が生まれました。
このような驚くべき密集度を支えたのは、産業都市として設計された独特の集住環境です。多層アパートや学校、病院、映画館など一通りの施設が整備され、一方で生活スペースは極限まで切り詰められていました。閉山後は一時ゴーストタウンと化しましたが、世界遺産登録や史料の研究により、軍艦島の歴史は現代にも語り継がれています。
軍艦島は日本だけでなく世界の都市史においても特異な存在であり、その最盛期の人口密度は今なお驚異的な数字として記録されています。最新の資料によると、この記録は世界中の都市と比較しても群を抜いており、軍艦島は「世界一の人口密集地」と言える都市のひとつなのです。
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