軍艦島のアパート間取りは?図面と暮らし解説詳しく紹介

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長崎県の廃墟島「軍艦島」。かつて海底炭鉱の島として賑わい、多くの家族が高層コンクリート製アパートに暮らしていた。しかし現在は無人で、間取りの詳細は謎に包まれている。
最新技術で図面や3Dモデルが公開され、当時の居住空間が少しずつ明らかになりつつある。本記事では研究資料をもとに、軍艦島アパートの間取り図面とそこからわかる部屋の構造、生活様式を詳しく解説します。

軍艦島アパート間取り図面の全体像

軍艦島には島全体に渡って多数の高層鉄筋コンクリート造アパートが建ち並んでいました。大正時代から昭和期に建設された住棟は、海に囲まれた島の限られた敷地に効率よく配置されており、そのフォルムはまさに軍艦のように見えることから「軍艦島」と呼ばれています。多くの住棟は数階建てから高いものでは10階建てに達し、階段室や廊下で各階がつながる構造でした。3Dモデルの公開などによりこれら住棟の外観や断面構造が見られるようになり、外観からは想像できない内部の間取りが徐々に明らかになっています。

高層アパートの鉄筋コンクリート構造

軍艦島のアパートはすべて鉄筋コンクリート造で、外壁や梁などが頑丈に組み上げられています。耐震性と防火性を兼ね備えたこの構造は、当時の日本でも先進的であり、島の全景に重厚な雰囲気を与えていました。建物内部には階段室と各住戸に続く共用廊下が設置され、各階の廊下から部屋へアクセスできる設計です。部屋ごとの間取りは柱や壁で区切られ、壁厚や窓の配置などから当時の建築技術の工夫がうかがえます。

住棟の配置と階層

島内のアパートは小さい棟から大きい棟まで区画に分かれており、南北両端にかけてL字型やコの字型に配置された大規模な棟もありました。建築年代によって階数や戸数に違いがあり、古い棟は数階建てが多いのに対し、末期に建てられた65号棟(報国寮)は10階建てと島内最大規模でした。一般に高い階ほど上位職の鉱員向けで、低い階には鉱員の家族用など階層による住み分けがあったようです。住宅棟は鉄筋の堅牢な構造で建造され、台風や地震にも耐える設計が施されていました。

部屋間取りの構成と広さ

1戸あたりの間取りは基本的に2室とキッチンからなる形式でした。和室の広さは一般的に6畳と4.5畳程度で、これに小さな台所スペースが付いた間取りです。炭鉱で働く鉱員の家族構成は親子5人が平均とされ、限られた室内空間を有効に使う必要がありました。そのため、居住空間には収納を兼ねた家具や間仕切り棚などが工夫して置かれ、子ども部屋や寝室が簡易な仕切りで作り出されていました。

一戸あたりの典型的な間取り

軍艦島の典型的な一戸は6畳間と4.5畳間に台所が付く「2K」タイプでした。6畳間は居間兼寝室として使われることが多く、4.5畳間は子ども部屋や客間に充てられました。家族の人数に応じて畳の上にすのこを敷くなどして寝床を作り、夜は布団で床を共有することでスペースを節約していたと言われます。窓からは外の光が入るものの遮音壁が厚いため、内部は外の音がかなり遮られる構造でした。

部屋の広さと人数

平均的な家族(親子5人程度)がひとつの住戸に暮らす際、6畳間に両親が寝床を並べ、4.5畳間には子どもたちが数人で寝ていたとされます。一例として、65号棟の元居住者は6畳と4.5畳の部屋に、家族で合計5人が生活していたと回想しています。広さは決して広くはありませんが、住戸ごとに小屋や間仕切りで区切りをつけてプライベート空間を確保する工夫がなされていました。居室内には小さな仏壇や箱棚、蓄音機といった当時を感じさせる家具類も置かれており、限られた空間に豊かな生活感が漂っていたようです。

バルコニー(ベランダ)の活用法

全室にベランダがあり、家族が洗濯物を干したりくつろぐスペースとして使われていました。ある住民はベランダに畳を1枚敷いて子どもの部屋として活用したというエピソードもあります。外海沿いの強い潮風が直に当たる日もあるため、厚手のカーテンなどで風除けをしたり、頑丈な物干し竿を設置して大量の洗濯物を干しても飛ばされないよう工夫されていました。またベランダ越しに隣家の生活が見える構造でありながら、互いにプライバシーを尊重しつつ集団生活を送っていたと言われています。

共用設備と生活様式

軍艦島アパートには当時の生活に必要な最低限の共用設備が備えられていましたが、現代の住宅と比べれば簡素なものです。トイレやダストシュート(ゴミ投入口)は各階の共用部分に設置されており、洗面や風呂の設備は住戸内になく共同の施設でした。照明も裸電球で暗めの廊下を照らす程度で、生活用水は共同の井戸や貯水槽から汲み上げていました。こうした施設によって不便な点はありましたが、住民たちは知恵を出し合って日々の生活を成り立たせていました。

トイレ・下水の仕組み

一部の新しいアパート(65号棟など)は室内に水洗トイレがあったものの、多くの棟(特に日給社宅と呼ばれた16~20号棟群など)では共同トイレが一般的でした。共同トイレは各階に複数設置され、便槽へ落として処理するタイプで「落とし便所」と呼ばれました。便槽からは島の焼却炉まで引かれた配管で運ばれ、定期的に焼却されていました。下水設備は未整備で、雨水と生活排水は壁の排水溝を通って海側に流されていました。

料理・洗濯など生活の工夫

各住戸には給湯設備も浴室もなかったため、カマドに火を焚く簡易な台所や炊事場がおかれていました。洗濯はベランダで手洗いするか、共用の洗濯場にある水槽を使って行いました。炭鉱作業の合間に衣類を洗い、家族が協力して干す風景が日常でした。また、釜戸の煙突は各アパート棟の両サイドに設置されており、燃料の薪や炭の煙を外へ逃がすようになっていました。少ない光源でも生活できるよう、家の中はなるべく物を出し入れしやすく整えられ、夜間には居室からもれる明かりがベランダ越しに見え合う共同生活が営まれていたようです。

ゴミ捨てとダストシュート

島内にゴミ回収車はなく、各フロアの廊下に設置されたダストシュート(ゴミ投入口)から燃えるゴミを捨てる方式が取られていました。各家庭でゴミ袋に分別せずに捨てたゴミはシュートを通って建物地下や地下一階に落ち、そこからリヤカーで焼却炉に運ばれて処理されました。缶や瓶などの資源ゴミの分別はなく、炭鉱当時は現在ほどゴミ出しの意識は高くなかったと言われています。また壊れた家具など大きなゴミは、閉山後に残った建材と混合されて海へ捨てられた時代もありました。

建設年代による間取りの変化

軍艦島の住宅群は大正時代から昭和期まで段階的に建て増しが行われ、それぞれの時期で設計や設備に違いがありました。初期の30号棟(日給社宅)は1916年の建築で、当時としては日本最高層のRCアパートでした。以降、戦前には8棟の群棟(31~48号棟)が9階建てで建設されましたが、これらは内廊下型で設備は共同が基本でした。戦後の1950年代後半以降にはさらに高層の65号棟(報国寮)や学校棟(小中学校)などが建てられ、一戸あたりの水洗トイレ設置や電話設置など設備の近代化が進んでいきました。

大正~昭和初期のアパート

30号棟を皮切りに建てられた大正期・戦前のアパート群は、いわゆる「日給社宅」と呼ばれる棟でした。これらの住棟は4~9階建てで、1階ごとに6畳+4.5畳の住戸が入り、10~20戸程度で構成されていました。当時はまだ水洗トイレがなかったため、トイレは階段室に設置された共同式。家族用に充分なスペースを割けなかったため、住戸間の扉や木製家具で臨時の間仕切りが作られることも多く見られたと伝わります。建造年が古いほど壁や建具は木製が多く、居室内の段差をコンクリートの蓋で覆い、隙間風を防ぐなどの工夫が見られました。

戦後の高層アパート建築

戦後の1950~70年代になると島内の人口が急増し、より多くの戸数を収容するため高層建築が加速します。特に1958年に着工した65号棟は10階建てで、340世帯を超える島内最大戸数を誇りました。この時代の住棟では、住戸内にトイレを設けたり、壁材にモルタルを多用するなど建築基準も向上しています。ただし資材不足の時期は、木製雨戸やベニヤ板、釘打ち棚など簡易な仕上げが目立ちました。高層化に伴い共用部の長い廊下や階段が増え、避難や物運びのためにエレベーターも導入検討されたものの、実際には設置されていません。

設備の近代化(上下水・電気)

時間とともに上下水道の整備が進み、新しい棟から徐々に水洗トイレや洗面設備が導入されました。65号棟建設の直前には電気温水器の配管が敷設され、当時としては珍しかった給湯機能が限られた住戸に提供された記録もあります。全館エアコンや暖房はなかったものの、一部の重要職向け住居では電話回線を引き込む工事がなされました。電力供給は島内に発電所があったため、すべての住棟に配電されており、夜には薄暗い裸電球が共用廊下や各住戸の照明を支えていました。

建物 建築年 階数 戸数 備考
日給社宅(30号棟) 1916年 4階 約44戸 国内最古の鉄筋コンクリート製高層アパート
31~48号棟群(日給社宅) 1930年代 9階 約70~80戸 戦前に建設、共同トイレ・裸電球照明が常設
65号棟(報国寮) 1958年 10階 約340戸 島最大規模、屋上に保育園・階段室トイレが水洗化

アパート間取りを確認できる施設と最新研究

軍艦島のアパート間取りを知るには実物資料が重要で、長崎市内には見学や展示が可能な施設があります。また建築研究者による測量や3Dモデリングも進み、間取り図面を見る手がかりが増えています。最近では高精度なBIM(3D建築情報モデル)がデジタルミュージアムで公開され、専門家でなくともVR的に室内構造を確認できるようになりました。下記に主な施設や研究成果を紹介します。

軍艦島デジタルミュージアムの3Dモデル

長崎市にある「軍艦島デジタルミュージアム」では、内部にアパートの生活が再現された展示室があります。とくに30号棟のアパートを再現した部屋があり、1950年代後半の家財道具やインテリアで当時の暮らしを体感できます。さらに公式サイトでは建築家中村享一氏による30号棟の日給社宅や他棟のBIMデータが公開されており、誰でもダウンロードして3Dモデルを閲覧可能です。壁や柱を透かして構造を確認できるなど、現地では得られない間取り図面の詳細を観察することができます。

端島炭坑資料館の展示

長崎県外海地区の高島町にある「端島炭坑資料館」でも、軍艦島関係の展示が充実しています。入口庭園には実物大の軍艦島模型があり、全体の建物配置や形状を学べます。館内では閉山時の資料や空撮写真、残された図面のコピーなどが展示されており、部屋や通路の構造を示す貴重な資料を閲覧可能です。特に、古い住宅帳や関係者の聞き取り記録から作成された住棟配置図といった資料は、間取りの検討に役立つ情報源となっています。

BIMデータと建築研究の成果

建築学会の研究者による調査では、現存する建物の遺構から寸法を計測し、図面や3Dモデルを作成する試みが行われています。先述のBIMデータ製作者の中村氏は軍艦島研究の博士号取得者で、彼の成果は世界遺産登録時の報告書作成にも用いられました。こうした研究成果のおかげで、30号棟全体の図面や、間取り図の正確な寸法、階段室と居室のつながりなどが明らかになりつつあります。最新の研究ではCGによる古写真の復元やドローン測量も導入され、図面からだけではわからない微細な室内構造まで解明されつつあります。

まとめ

軍艦島のアパートは、戦前から高度経済成長期までの日本住宅建築の歴史を集約した存在です。間取り図面や3Dモデルの公開により、当時の住戸がどう設計され、住民がどのように暮らしていたかが具体的に見えてきました。狭い居室で多人数が生活するための家具配置や工夫、共同施設を利用した生活習慣など、間取りを見ることでその生活様式が浮かび上がります。現在では資料館やデジタルミュージアムなどでこれらの情報を体験でき、まさに「図面から暮らしをたどる」形で軍艦島の歴史理解が深まっています。

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