かつて炭鉱都市として栄えた軍艦島。1960年代の全盛期には約5300人がこの小さな島で暮らし、
日本屈指の人口密度を記録しました。当時の島内には学校や病院も整備され、住民は快適な生活を送っていました。
その後閉山し無人となった軍艦島ですが、2015年には世界遺産に登録され、2009年からは観光が再開されています。
本記事では、数字をもとに当時の人口規模と生活環境、そして変遷を詳しく解説します。
目次
軍艦島全盛期の人口規模
1960年代の軍艦島では、鉄筋コンクリート造の高層住宅に約5,000人以上が居住し、島内は世界的にも類を見ない人口密度を記録しました。
本節では全盛期における人口の規模やその背景について詳しく見ていきます。
最盛期の人口と世界一の人口密度
1960年当時、軍艦島には約5,300人もの人々が暮らしていました。全島の面積はごく狭く、1平方キロメートルあたりの人口密度は東京の9倍以上に達するといわれる驚異的なものでした。
人口密度の観点から見ると、当時の軍艦島はまさに日本一、さらには世界でも屈指の過密地域だったのです。
ピーク時の年と推移
端島の人口は第二次大戦後に急速に増加し、1950年代末から1960年代初頭にかけてピークを迎えました。1955年には約3000人程度だった住民数は、鉱山開発の進展と共に急増し、1960年には約5300人に達しました。
その後、日本のエネルギー政策が石炭から石油へ転換されると島の採掘は縮小へと向かい、1974年の炭鉱閉山に向けて人口は急速に減少していったのです。
人口増加を支えた石炭産業
端島の人口増加は良質な石炭採掘を支える炭鉱開発の拡大と密接に結びついています。1890年に三菱財閥が経営を引き継いで以降、端島炭坑の採掘量は飛躍的に増大しました。
とくに1960年代初頭には、島の石炭生産量は年間約40万トンを超えていたともいわれ、この大規模生産を支えきれるだけの労働力が必要だったのです。このように石炭産業の発展が軍艦島の人口増加の原動力となっていたのです。
軍艦島の歴史と産業発展
端島(軍艦島)は、19世紀末に三菱による炭鉱開発を受けて本格的に発展し始めました。三菱財閥が1890年に買収すると、島の面積は埋め立てられ鉄筋コンクリート造の高層建築が次々と建設されました。
戦前から戦後にかけて人口が増加するに連れて、端島は炭鉱都市として急速に変貌を遂げていったのです。
端島炭坑の発展と三菱の参入
端島の炭坑開発はもともと小規模でしたが、明治時代になると急速に拡張されました。1877年に国から県営鉱山となり、1890年には三菱が経営権を取得して大きく飛躍しました。
三菱は投資を拡大し海中へも深い坑道を掘削、同時に埋め立ても進めて港湾や住宅地を整備しました。このように三菱参入後は炭鉱技術が導入され島は一気に近代化していったのです。
明治から昭和の都市機能整備
明治から大正にかけて端島の整備は続き、1916年には日本初の鉄筋コンクリート造アパートが建設されました。
その後も高層住宅は増え続け、昭和初期までに小学校・中学校、郵便局、診療所など生活に必要な施設が次々と整備されました。昭和戦前の時点で、端島は人口と都市機能の両面で完全に独立した炭鉱都市の形を成していたといえます。
全盛期の生活環境と都市機能
全盛期の軍艦島には、5,000人以上の住民に対応する生活インフラが完備されていました。島内には学校や病院、店や食堂、娯楽施設が立ち並び、日用品の購買や余暇の活動も島外に出ずにまかなえました。
いわば軍艦島は当時の他の炭鉱町とも比較にならないほど充実した自給自足の小都市といっても過言ではないほどでした。
高層集合住宅による居住環境
住民の多くは島内に建設された高層集合住宅で暮らしていました。端島では狭小な土地を有効活用するため、6~11階建てにも及ぶ大型アパートが林立していました。
各棟には階段や通路で区画された住宅ユニットが並び、1棟あたり数百人が生活しました。家族世帯を想定した間取りに加え、電気や上下水道といった近代的設備も完備されており、当時としては非常に整った居住環境だったといえます。
学校・病院・娯楽施設の完備
学校や病院など公共施設も充実していました。島内には専用の小学校・中学校が設置されており、炭鉱労働者の子どもにも教育の場が用意されていました。診療所には医師や看護師が常駐し、緊急時の医療対応が可能でした。
加えて、共同浴場や公園、食堂、商店、理髪店など日常生活の施設がそろい、映画館やパチンコ店といった娯楽施設もあったため、住民は仕事帰りにリフレッシュすることもできたのです。
人口の構成と労働環境
軍艦島の住民は、主に炭鉱で働く男性鉱夫とその家族で構成されていました。昭和30年代には多くの鉱夫が家族を島に帯同し、子どもや高齢者を含む家族世帯が形成されていたのです。以下では、島を支えた鉱山労働者の生活や人口構成について見ていきます。
鉱山労働者と家族の構成
当時の端島では男性鉱夫とその家族が大半を占めていたため、住民の多くは家族単位の世帯でした。妻や子どもが共に暮らし、子どもたちは島内の学校に通っていたほか、成人した鉱夫は家族と離れがたく生活していたといわれます。
実際、家族向けの住居や保育施設が整備され、妻子を伴う鉱山労働者は企業城下町の一員として生活していたのです。
外国人労働者の存在
また、当時の軍艦島には外国人労働者も少なからず存在していました。特に太平洋戦争中には朝鮮半島や中国大陸から多くの労働者が徴用されて島に送られ、炭鉱の仕事に携わっていました。
これら外国人労働者は島の総人口の一部を占め、本土から来た日本人労働者やその家族とともに、端島の社会を構成していたのです。
閉山とその後の展開
全盛期を過ぎた軍艦島は、エネルギー政策の変化とともに急速に衰退していきました。1960年代末から石炭需要が減少し始め、国内のエネルギー転換が進められました。
その結果、採掘事業が次第に縮小し、1974年に端島炭坑は正式に閉山されました。それ以降、島を離れる住民が相次ぎ、軍艦島は一転して無人島となったのです。
閉山までの経緯
1970年代に入ると日本国内で石炭産業の重要性は急速に低下しました。端島炭坑も長年の操業で老朽化が進み、採算が悪化していたのです。1973年には石油ショックも起こり、政府はエネルギー政策を石油へシフトしました。
こうした情勢の中で三菱は1974年4月に端島炭坑の閉山を決定しました。それ以降、住民は次々と島を離れ、端島は無人島となったのです。
現在への遺産と再評価
閉山後、軍艦島は長年にわたり立ち入り禁止とされ、訪れる者はありませんでした。しかし2009年からは安全対策を施した上で観光客の上陸が可能となりました。2015年には「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界文化遺産に登録され、軍艦島の歴史的価値は再評価されています。
近年では修復や保護のための新施設建設などの計画も進行し、かつて栄華を極めた軍艦島の遺産保存が進められています。
まとめ
軍艦島の全盛期に暮らした人口は約5,300人(1960年頃)で、日本でも類を見ない高密度でした。石炭産業の発展とともに全国各地から集まった炭鉱労働者とその家族が島に住み、学校や病院、娯楽施設もすべて島内で賄われていました。
その一方で、エネルギー源の変化により1974年に炭鉱は閉山され、住民は島を去りました。現在、軍艦島は世界遺産となり、かつて栄えた居住地として当時の人口や生活風景が訪問者に伝えられています。軍艦島の歴史と人口動態を数値で振り返ることで、その時代の暮らしぶりをよりリアルに感じられることでしょう。

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