長崎にある無人島「軍艦島」は、かつて炭鉱で栄えましたが、1974年に閉山・閉鎖されて無人島となりました。
この閉鎖時期や閉鎖理由、そして現在の観光再開に関する最新情報を解説します。歴史的経緯から再開の見通しまで、詳しく紹介し、疑問にお答えします。
目次
軍艦島の閉鎖はいつ?その理由は
軍艦島は1974年1月15日に閉山(炭鉱の採掘停止)し、同年4月20日に島内の全施設が閉鎖されました。
その後、島は無人島となり、現在に至っています。閉鎖の主な理由は、石炭鉱脈の枯渇と安全確保の問題です。
長い歴史の中で採掘可能な良質の石炭が取り尽くされ、さらに深い坑道での作業は危険度が高まったため、炭鉱経営を続けるのが困難となりました。
閉山および無人化の日付
端島(軍艦島)炭鉱は1974年1月15日に閉山式を行い、同年4月20日には最後の島民が島を離れ、事実上無人島となりました。閉山に先立って1月15日には小中学校の体育館で閉山式が開かれ、労使関係者ら約780人が出席したと記録されています。
閉山後は島に人が住まなくなり、長らく廃墟となりました。以下は当時の主な出来事です。
- 1974年1月15日: 端島炭鉱の閉山式(採掘停止)
- 1974年4月20日: 最後の島民が島を離れ、端島が無人島に
石炭資源の枯渇と安全性の問題
閉山の最大の理由は採掘可能な石炭の枯渇でした。当時の主坑道は海底下800~1000mまで到達しており、深度が増すほど作業は危険になります。1964年のガス爆発事故では主坑道が水没し、それ以降はさらに深い炭層に手を付ける必要がありました。
閉山時、三菱鉱業の岩間社長は「安全に採炭できる炭層を掘り尽くした」と述べています。輸入炭との競合がない中でも埋蔵量の限界と安全上の課題から閉山に踏み切ったのです。閉山まで端島炭鉱は黒字経営を続けていたとも伝えられています。
誤解されがちな閉鎖理由:石油シフト説
軍艦島閉鎖の理由として後年「石炭から石油へのエネルギー転換によるもの」と紹介されることがあります。しかし軍艦島では石炭品質が高く、輸入石炭や石油価格に負けたわけではありません。政府のエネルギー政策に左右されたのではなく、あくまで採掘可能な石炭資源の枯渇と安全性の問題が閉鎖原因です。
当時は石油ショックによる影響下でしたが、端島炭鉱は閉山直後も黒字を維持していました。本当の閉鎖理由は「安全に採掘できる石炭がなくなった」ことであり、石油シフトとは直接関係がありません。
端島炭鉱閉山の経緯と背景
軍艦島閉鎖の背景には日本の石炭産業全体の変遷があります。端島は1890年に三菱に買収され本格採炭が始まり、戦後の労働組合結成や施設投資で1950~60年代には繁栄しました。1960年初期の端島は約5,300人が生活し、東京23区の約9倍の人口密度を誇る炭鉱都市でした。
しかし昭和30年代後半からは産炭量が減少傾向になり、石油の普及や冷害対策法制定など外的要因により経営は厳しくなりました。端島では1964年にガス爆発事故で主坑道が水没し、新たに海底下へ掘削した三瀬地区の坑道でも可採炭層が少なく、結果的に閉山への道を辿りました。
炭鉱の黄金時代と衰退
戦後、端島炭鉱は石炭需要の高まりで繁栄し、日本初の鉄筋コンクリート高層ビルを含む社宅や映画館、学校などが建設されました。しかし1960年代後半からは石油利用の拡大が進み、石炭産業は再編期に入りました。端島でもスクラップ&ビルドの影響で設備の新陳代謝が進められ、生産力を維持しようと様々な対策が講じられましたが、次第に資源の限界が明らかになっていました。
深部坑道の限界と災害の影響
端島の坑道は非常に深く、1964年8月のガス爆発事故で主坑道が水没しました。このため作業は主に新設した三瀬地区の坑道に移され、1965年に三瀬地区への採炭が始まりました。しかし三瀬地区の炭層も断層で覆われており、海底層の採掘寿命は短いと予測されていました。この災害と鉱脈の限界が、閉山決定の大きな要因となったのです。
閉山決定とラストライブ
こうした状況を受けて、1974年1月15日に端島炭鉱の閉山式が行われました。閉山式では炭鉱長が「安全に採炭できる炭層を掘り尽くした」と語り、84年にわたる炭鉱の歴史が幕を閉じました。当時、端島炭鉱は閉山まで黒字だったため、閉鎖を惜しむ声もありましたが、労使は閉山に合意し、4月20日に最後の住民が島を去り無人島となりました。
世界遺産登録後の観光再開と最新状況
軍艦島は閉鎖後も注目を集め続け、2009年には観光船での上陸見学が始まりました。さらに2015年7月には「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録され、国内外から多くの観光客が訪れるようになりました。以降は保存整備や安全対策が進み、現在はガイドツアーでかつての炭鉱都市の風景を学びながら見学できます。以下では、観光再開の流れと最新情報を見ていきます。
世界文化遺産登録と観光客誘致
2015年の登録以降、軍艦島は歴史的価値を国際的に認められ観光客誘致が加速しました。長崎市は専用サイトやパンフレットを用意し、修学旅行や外国人客の誘致にも力を入れています。島に残る建築群や生活跡は国内メディアで頻繁に取り上げられ、観光地としての注目度は一段と高まりました。
観光船と上陸ツアーの開始
現在、長崎港からは複数社の遊覧船が発着し、日中は軍艦島へのクルーズを行っています。一部安全区域で上陸見学が可能で、ガイドの解説を聞きながらかつての社宅やプール跡などを巡ります。天候に左右されるため上陸できない場合もありますが、見学客は年間で数万人にのぼります。これらのツアーが軍艦島の新たな収入源となり、島の情報発信にも貢献しています。
最新のツアー情報(2025年2月再開)
近年は一時休止や運休を挟みながらも、ツアー再開に向けた整備が進められています。例えば軍艦島コンシェルジュでは、2025年2月2日から最新整備を終えた上陸船「ジュピター」でツアーを再開しました。これにより、長崎港発着の運航本数が増加し、観光客の受け入れが拡大しています。ただし気象条件によっては直前に欠航になることも多いため、参加前に最新情報を確認することが重要です。
訪問者数とメディアの注目
世界遺産登録後はテレビドラマやドキュメンタリーなどでも頻繁に取り上げられ、訪問者数は増加傾向にあります。具体的な人数は公開されていませんが、ある調査では約40~50%のツアーが天候不良で中止されるほど高い関心がうかがえます。媒体では「かつて炭鉱で栄えた廃墟都市」という切り口で紹介され、観光客は廃墟と化した街並みを船上から観察しつつ、当時の暮らしに想いを馳せています。
台風接近による一時閉鎖と再開見通し
軍艦島へのツアーは海上天候に大きく依存します。2025年9月、九州付近に台風の接近が予想されたため、長崎市は軍艦島の見学施設を一時閉鎖しました。安全確保のため、見学エリアの転落防止柵を撤去し、9月3日以降は島への上陸が禁止されています。現在のところ再開予定日は未定で、台風通過後に安全対策が完了し次第、上陸ツアーが再開される見込みです。
台風対策で転落防止柵撤去
台風接近に伴い、長崎市は事前に転落防止柵の撤去措置を取りました。見学時に設置されていた柵を撤去することで強風や高波によるダメージを軽減しようというものです。この措置により、軍艦島には安全設備がなくなり、島上に入場することができなくなりました。
現在の上陸禁止状況
転落防止柵撤去により、2025年9月3日以降は軍艦島への上陸は禁止されています。観光船は周遊コースに切り替えて運航されており、長崎港を出発して軍艦島の周辺を巡る形で見学しています。乗船客はガイドの解説を聞きながら島を船上から眺めるのみで、島内には立ち入れません。周遊クルーズでも軍艦島の景観を堪能できるようになっています。
再開見通しと安全対策
長崎市は台風による影響がなくなり次第、転落防止柵の再設置を含めて速やかに施設を復旧すると発表しています。再開の具体的日程は未定ですが、安全対策が整えば上陸ツアーは再開される見込みです。また長期的には空閑施設の補強や気象状況への対応拡充なども検討されており、訪問者の安全を第一に観光再開の準備が進められています。最新情報はツアー会社や長崎市の観光情報サイトで案内されますので、参加前に必ず確認してください。
現在、台風接近に伴い軍艦島への上陸ツアーは一時停止中です。再開日程は未定ですが、安全対策が完了次第、徐々にツアーが再開される予定です。ツアー参加を検討中の方は、各社の公式サイトや長崎市の情報で最新状況を確認してください。
まとめ
軍艦島は1974年に炭鉱閉山・島閉鎖となり、石炭鉱脈の枯渇と安全上の限界が閉鎖の主な理由でした。閉鎖後はしばらく無人の廃墟となりましたが、2009年以降に観光客の受け入れが始まり、2015年の世界遺産登録を機に注目を集めています。現在も安全確保のため一時的な閉鎖が続いていますが、関係者は復旧後の再開に向けて準備を進めています。最新情報を確認し、次の機会にはぜひ軍艦島の歴史と独特の景観をご覧ください。

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