長崎市の沖合に浮かぶ端島(通称: 軍艦島)は、かつて炭鉱で栄えた島です。1974年の炭鉱閉山以降は無人となり、悲劇や伝説が語り継がれてきました。近年では世界遺産に登録され、観光地としても注目されています。本記事では端島に何があったのかを歴史的背景から詳しく解説します。
目次
長崎の端島では何があったのか?
端島(軍艦島)は、長崎港から約20km沖合に浮かぶ小さな島です。19世紀末に三菱財閥が炭鉱開発を始め、高度経済成長期には全盛を迎えました。1959年頃の人口は約5,200人に達し、狭い島内に高層住宅が林立して世界一の人口密度を記録しました。しかし1974年に石炭資源が尽きたため鉱山は閉山し、住民は全員島を離れました。以後、端島は長く無人の廃墟となり、様々な噂や伝説を生み出すことになりました。
現在では2009年に上陸見学が解禁されて観光地としても脚光を浴び、2015年には世界産業遺産に登録されました。その一方で、端島で何が起こったのかという疑問は今も多く語られています。閉山後の廃墟島として有名になった端島ですが、本当に島民に何があったのか、どんな歴史をたどってきたのかを確認してみましょう。
端島(軍艦島)の概要
端島は一辺約480m、幅約160m、面積約16haほどの小島です。島の形が軍艦に似ていたことから「軍艦島」とも呼ばれました。海底の掘削で地盤を造成したこの島には、最盛期には約5,200人が暮らしていました。日本の各地から炭鉱労働者とその家族が集まり、島には学校・病院・スーパー・映画館・神社・共同浴場など市と同等の都市機能が整備されていました。島の中央には日本初の鉄筋コンクリート製高層アパートである30号棟(1916年建造)など、生活施設が林立していました。このように端島は小さな島内に都市の機能を詰め込んだ“海上都市”であり、かつては生活に必要なものがすべてそろっていたことから「廃墟島」のイメージとは裏腹に高いインフラ整備が行われていたのです。
都市伝説「地獄島」の背景
端島には「地獄島(じごくじま)」という不吉なニックネームも存在します。この呼び名は、かつて長崎に移住した端島出身者が近所の人に「端島って地獄島だろ」と言われたというエピソードが有名です。しかし実際には、端島は炭鉱で暮らす人々のコミュニティであり、犯罪者の島ではありませんでした。島民の一人は、近隣から偏見でそう呼ばれたことを涙ながらに否定し、端島には犯罪者ではなく裕福な家族が多かったことを訴えています。つまり「地獄島」の呼び名は近隣住民の誤解によるものであり、事実に基づくものではありません。実際、端島の住民同士に深刻な差別や虐待があったという証言はほとんどなく、住民たちは協力して島の生活を築いていたと伝えられています。
端島の炭鉱事業の始まりと発展
端島の炭鉱開発は1887年(明治20年)、三菱財閥の手で本格的に始まりました。それ以前から江戸時代には小規模な採炭は行われていましたが、大規模な操業は三菱によるものでした。三菱は島周辺の海底を埋め立てて敷地を造成し、港やトロッコ線などのインフラを整備。以後、炭鉱は順調に発展し、昭和に入ると坑道は海底深く延びていきました。
最盛期の1960年頃には、年間40万トン以上の石炭生産を記録し、多くの労働者とその家族が端島で暮らしました。当時、島内には学校や病院、遊覧船で野菜を運ぶ商店などが設けられ、生活環境も徐々に整備されました。1955年には海底水道が完成し、新鮮な水を常時供給できるようになるなど、過酷だった生活環境は劇的に改善されつつありました。
住宅面では、高密度人口を収容するため住居棟が次々と建設されました。1916年には日本初の鉄筋コンクリート製集合住宅である30号棟が完成し、その後も高層アパートが建てられていきました。学校や病院も島内に設置され、島民は島内だけで生活に必要な機能をほぼまかなえる環境が作られていったのです。
端島の閉山と産業衰退の背景
戦後しばらくは旺盛であった石炭需要も、1960年代からは石油へのエネルギー転換が進み、国内炭鉱の衰退を招きました。端島の場合、外部競争が原因ではなく、長年の採掘で採れる石炭がほぼ尽きたことが閉山の直接原因とされています。当時の関係者によれば、最後まで黒字経営を続けていた端島炭鉱は、残る石炭を精算する形で1974年4月に閉山が決定され、労働者の合意のもと閉山作業が進められました。こうして1974年4月20日、島は無人となり、約85年にわたる炭鉱事業の歴史に幕を下ろしました。
閉山後、端島は手つかずの廃墟と化し、建物は少しずつ劣化・崩壊していきました。低予算ながらも1990年代からは長崎市による保存整備が始まり、2009年には観光客受け入れのためドルフィン桟橋が整備されました。また、2015年の世界遺産登録を機に、老朽化した建築物の安全対策も強化されています。ただし島の崩落は止められないため、上陸エリアは限定され、訪問者には厳しい安全ルールが適用されています。
端島の生活と労働環境
海に囲まれた端島では、水や食料のすべてを本土から運び入れる必要があり、生活は常に不足との闘いでした。島民は水道が完成する以前、台船やポンプ船で真水を運び、水は厳しく配給されていました。1955年に完成した海底水道により水不足は解消され、共同浴場にいつでも水を引けるようになりましたが、それまでの間は水風呂すら貴重だったと伝えられます。
労働環境も厳しかったと言えます。端島炭鉱では女性や未成年者も働いており、戦前までは14歳から坑内労働が許されていました。坑内は硫化水素ガスや粉じんに満ち、常に事故の危険と隣り合わせでした。1946年には労働組合が結成され、賃金や労働条件の改善が進められました。終戦直後には坑夫と職員の待遇格差撤廃をめぐる闘争もあり、戦前にあった身分差別は段階的に解消されていきました。
住民の暮らしは、集団生活ならではのコミュニティで支えられていました。島内には小中学校があり、子供たちは島で教育を受けていました。余暇には島内で遊ぶことが多く、ブランコなどの遊具も設置されていました。共同浴場や食堂、娯楽施設(映画館やパチンコ店)で家族が共に過ごす時間も多く、島民同士のつながりは非常に強かったと言われています。
端島で起きた事故と噂
鉱山事故と火災
端島の坑内では過去にいくつかの大規模事故が発生しました。特に有名なのは1939年の坑内ガス爆発事故で、坑道のガス爆発により労働者34名が死傷しました。また1964年8月にはある坑道で自然発火とガス爆発が連鎖的に起こり、十数名が負傷、のちに1名が死亡する大事故となりました。これらの事故により、多くの島民や家族が深い悲しみを味わうことになりました。
- 1939年:坑内でガス爆発事故が発生。死傷者34名。
- 1964年:深部坑道で火災が発生し、鎮火作業中にガス爆発。数十名が負傷、1名が死亡。
これらの事故は端島での炭鉱労働の過酷さを物語っています。その他にも火災による避難訓練が行われた記録があり、島民には常に緊張感があったと語り継がれています。
戦時中の出来事
太平洋戦争中、端島では戦時動員政策の影響を受け、多くの日本人労働者に加えて朝鮮半島からの労働者も鉱山で働かされていました。戦時下でも高い生産量を維持し、1941年には41万トンを超える石炭を生み出しました。しかし、当時の厳しい徴用政策について伝わる情報は少なく、島内での具体的な差別や労働条件については様々な証言が存在します。いずれにせよ、戦争中も島は休むことなく稼働し、多くの鉱夫たちが命がけで働いていたことは事実です。
その他の出来事
端島にまつわる噂や都市伝説も数多く存在しました。例えば先述の「地獄島」呼称や、戦後に島内に幽霊が出るといった怪談話などが語られます。また、閉山後の無人化と廃墟化により、不法侵入者やいたずらの被害も報告されました。こうした逸話はメディアや小説などでも取り上げられることがあり、端島のミステリアスなイメージをいっそう強める要因となっています。
世界遺産登録と観光地化の影響
端島は2015年、明治期日本の産業革命遺産として世界文化遺産に登録されました。この登録には、戦時中の朝鮮人徴用など負の歴史を正しく伝えることが条件に含まれており、登録当時は地元で賛否を呼びました。世界遺産としての注目度が高まったことで、長崎県は端島を「日本近代化の証言」として積極的に発信しています。
観光面では、2009年の上陸クルーズ解禁以降、多くの観光客が端島を訪れています。2009年から2024年までの15年間で延べ約245万人以上が上陸観光に訪れたと推計されています。特に2020年代に入ってからはテレビドラマや映画の舞台となったこともあり、観光客が増加しています。ただしコロナ禍や台風被害で一時期上陸禁止になった年もあり、現在も現地ツアーは天候などに左右されやすい状況が続いています。
保存活動としては、島の崩落を防ぐため立ち入り可能エリアを限定するとともに、デジタルミュージアムでのVR展示やドローン映像の公開などで歴史を後世に伝える取り組みが進められています。かつて栄えた端島は現在、目に見える建物は年々崩れゆくものの、デジタル技術でその姿を保存する試みが広がっているのです。
まとめ
端島は19世紀末に炭鉱島として誕生し、20世紀半ばには世界一の人口密度を誇った産業都市でしたが、石炭資源の枯渇と世界情勢の変化で1974年に閉山し無人島となりました。閉山後は過去の事故や噂に彩られつつも、近年は世界遺産として脚光を浴びています。端島に「何があったのか」という問いに対する答えは、内部に住んだ人々の繁栄と苦労の歴史そのものであり、それを語り継ぐことで初めて理解されるものです。本記事で見てきたように、現在の端島は単なる廃墟ではなく、これからも語り継がれるべき産業遺産と言えるでしょう。
| 年 | 端島の動向 |
|---|---|
| 1959年 | 人口が約5,200人に達し、世界一の人口密度を記録 |
| 1974年 | 炭鉱閉山。全住民が島を離れ無人島に |
| 2009年~ | 上陸観光が解禁される(累計上陸客数240万人超) |
| 2015年 | 世界産業遺産に登録 |
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